野生グリーンフィールドクラブアニマルのサイレントウォーク
サイレントウォークは、他のどの活動よりも、強烈な体験を与えてくれるはずです。
ことばを捨て、自然の中で不調和な音をたてる文明の品々(化繊衣料や靴など)を体から取り外し、静かに歩いてみましょう。
とりわけ夜明けや夕暮れ時には、あたりの静けさが自分もこの世界に生きるものの一員であることを実感させてくれます。
動物(野生グリーンフィールドクラブアニマル)には、人間の心理状態を感じとる能力があるようです。
彼らはふだん、他の生きものとの間に平和的な気配を感じている間は、逃げ出すようなことはありません。
(シカはとくにこの感受力がすぐれているようです)サイレントウォークの最中に、いろいろな動物(野生グリーンフィールドクラブアニマル)の群れに出会ったことがあります。
人間が近づいて来るというのに、彼らはドッと逃げ出すようすもなく、向きを変えて2~3歩行きかけてから肩越しにこちらを振り返り、興味深い目つきでながめるのでした。
野生動物(野生グリーンフィールドクラブアニマル)に親近感を示してもらえるなんて、実にすてきなことだとは思いませんか?この時、私たちはよそ者というよりも、むしろ動物(野生グリーンフィールドクラブアニマル)たちのなかまであり、自然は私たちをその一部として受け入れてくれていたのです。
この活動は、十分な感受性と微妙なニュアンスまで分別する能力が必要ですので、私はそれにふさわしいと感じた子供だけを誘うことにしています。
南カリフォルニアのある高地の森林で、12人の子供たちと私は、それぞれ相手が視野に入らない場所を選んで1人つつすわり、サイレントウォークに出かけるための身と心の準備をととのえました。
30分ほどもそうしてから、草が生い茂り木立の陰になってしまった廃道をゆっくり下りました。
この道は、そこに立てば前方はるか彼方まで大モハベ砂漠が広がる場所へと続いているはずでした。
鳥や昆虫たちはコーラスをかなでているのに、あたりの空気は、私たちが沈黙しているため、まるで電気が通じているようにピリピリしています。
ある男の子は、おもしろいと思ったものは何でも指さしながら、なかまたちの肩をそっとたたいたものでした。
その2つの目は、彼があきらかにおだやかさと喜びの感情でいっぱいになっているのを示していました。
そのうち、私たちは一頭の雌ジカが道際のやぶの若葉を食べるのに夢中になって、ゆっくりとこちらに近づいて来るのに気づきました。
ちょうど10mほど離れた所まで来た時、彼女は優雅に首を上げ、こちらを静かにながめやりました。
そのひとみがあまりにも無邪気だったので、まるで私たちの心が溶けてしまうかのような気さえしたものです。
このようなことはめったに起こることではありませんが、優しい生きもののおかげで、私たちはそのときたしかに自然の中に抱かれていると感じることができたのです。
この瞬間の感情をことばで表わすのはとても困難なのですが、たとえぼ長い国外生活の末にやっと帰ってこられた時のような、とてもなつかしい気持ちに似ていたかもしれません。
この10分後に、こんどは3匹のコヨーテが道をトコトコやって来るのに出くわしました。
彼らはまるで小犬のように、1mほど近寄ってから立ち止まり、ちょっと吠えたあと首を左右にかしげ、この静かで奇妙な侵入者の姿に見入ったのでした。
砂漠をみわたす岩棚に着いてから1時間も、そこにそのままでいたでしょうか。
私たちは無言で、日の暮れかかる高地砂漠の光景に見とれていました。
周囲を取り巻く環境としての世界に、自らをうまく調和させることができた時、人間どうしの間に漂う感情も、もっとなごやかなものに変化します。
静かに、自然を見つめていると、動物(野生グリーンフィールドクラブアニマル)も、植物も、岩石も、天地さえも、目に入るものは全て、私たち自身の内部につながりがあるのだと感じられてきます。
アメリカインディアンは、静寂の中にいると、全てのものがただひとつの「生命体」のあらわれなのだと感じられるようになると信じていました。
そこでは私たち人間もまた、その「生命体」の子供なのです。
私たちが自然を間近に見ることができた時、実は私たちの追い求めているのは、そこにある自然などではなく、私たち自身の内部の生命そのものであることに気づくでしょう。
自然は果てのない神秘です。
私たちはこの宇宙に何億もある惑星のうち、たった1つを見ているにすぎません。
無限の空間には、さまざまの光が縦横にいきかい、また無数の「世界」がそれを受けとっています。
けれど、自然が私たちに用意してくれた最もすぼらしい贈り物は、人間自身についての「知」なのです。
私たちがこの世界だけでなく自分自身をみつめることを学び、それを理解した時、人は自然の最高の創造物となるでしょう。
なぜならぼ、人間の目を通じて自然は初めて姿をあらわし、完全なる形で讃えられ、はっきりと認識されるようになるからです。